「一、十、百、千、万、億、兆、京、垓、●、穣、溝、澗、正、載、極、恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議、無量大数」という数字の単位を、6歳の息子が楽しそうに歌っています。彼にとって、これらの単位を覚えるのは遊びの一環であり、何よりも「0が多ければ多いほどかっこいい」と感じているようです。彼が最初に覚えた言葉は「ボール」で、その頃から丸いものに対して特別な興味を持っていました。保育園の宇宙図鑑には、太陽系の惑星やその衛星が紹介されており、彼はその名前をすべて暗記してしまうほどの記憶力の持ち主でした。

最近、息子は学習塾に通い始め、算数を習うようになりました。数字に興味を持ち始めた彼は、ある日「兆の次は何?」と私に尋ねてきました。しかし、私もすぐには答えられず、「垓」までしか覚えていませんでした。そこで、動画投稿サイトで数字の単位を歌で覚えられる動画を探し、それを息子に見せることにしました。すると、彼は驚くべきスピードで歌に合わせてすべての単位を暗記してしまいました。彼にとっては、数字の単位が増えれば増えるほど楽しいようで、0の数が増えるたびに喜びが倍増している様子です。

これらの数字の単位は、日本の江戸時代に活躍した数学者、吉田光由(よしだ みつよし)が著した『塵劫記(じんこうき)』で整理されたものが基になっています。この書物では、インドや中国から伝来した呼称がまとめられ、日本における数の単位として体系化されました。例えば、「恒河沙(ごうがしゃ)」という単位は、サンスクリット語で「ガンジス川の無数の砂」を意味しています。ガンジス川の砂の数が計り知れないほど多いことから、この単位が使われるようになりました。また、「不可思議」という単位も存在し、これは「仏の知恵が深遠すぎて人間の理解を超える」という仏教的な意味合いが込められています。これらの単位の背景には、インド哲学や仏教思想が色濃く反映されています。

無量大数は、1の後に0が68個も続く途方もない数字の単位です。息子はその圧倒的な桁数に目を輝かせ、「すごいね、もっと知りたい!」と意欲的です。ですが、実は無量大数のさらに先にも、より大きな単位が存在します。仏教の経典『華厳経(けごんきょう)』には、無量大数を超えるさらなる数字の単位が記されています。

『華厳経』に登場するこれらの単位には、「阿伽羅(あから)」「摩婆羅(まばら)」「最妙(さいみょう)」「調伏(ちょうぶく)」「不動(ふどう)」「娑婆羅(しゃばら)」「演説(えんぜつ)」「無尽(むじん)」「無我(むが)」「青蓮華(しょうれんげ)」「無辺(むへん)」「無等(むとう)」「不可数(ふかすう)」「不可称(ふかしょう)」「不可思(ふかし)」「不可量(ふかりょう)」といった壮大な名称が列挙されており、その最終的な単位は「不可説不可説転(ふかせつふかせつてん)」と呼ばれています。この言葉には、「計り知れない数」という意味が含まれており、想像を絶する大きさを示しています。

これらの単位の名前には、インドや中国の思想、さらには宗教的な概念が深く関わっており、宗教哲学的な意味合いも多く含まれています。これを6歳の子供に説明するのは非常に難しいことで、実際に息子が理解できるのはまだ先の話かもしれません。しかし、彼はその難解さを感じることなく、純粋に「数字がどこまで続くのか」という興味に夢中になっています。

息子はまた、保育園で「空の上には何がある?」というなぞなぞに答える際、他の子供たちが「雲かな?」と言う中、「オゾン層だよ」と答えるなど、周囲から一目置かれる存在です。彼は国旗カードでも、世界のすべての国旗と国名を覚えており、その知識の豊かさに保育士も驚かされることがよくあります。「物知りですね!」とよく言われる息子ですが、もし彼がこれらの数字の単位を呪文のように唱えだしたら、周囲から「変わった子」と見られるかもしれないという心配もあります。しかし、私としてはその好奇心を大切にしてあげたいと思っています。

このように、息子が数字に夢中になっている様子を見ると、彼の将来に期待が膨らみます。もしかしたら、彼は将来、数学者や科学者として活躍するのかもしれません。彼の好奇心は、常に新しいことを知りたいという欲求で溢れています